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       <その1>

 そもそもこの工場を作らねばならないと考えたのは私自身である。 

 

 私は昭和61年3月に健康商品事業部長として事業部の建て直しを命じられ、続いて翌年3月にヘヤードライヤーを主力商品とするビューティーライフ事業部とを一つの事業部にすることになり、その両者を担当する事業部長に任じられた。

 私は二つの赤字事業の再建を任され、海外生産展開を一つの最重要事業戦略として進めざるを得なくなったのである。予ねて私は事業部長に就任する前から、海外工場の経営には現地人、現地産業の活用が重要であること、また同時に海外経営にも社風の形成や、社会経済政治等のさまざまな環境条件の違いによって、難易があり、経験のない国内企業が海外に進出するに当たっては、致命的なリスクの少ない地域から始め、段階的に難易度の高い地域での事業展開を図るべきであるという考えを持っていた。

 たまたま、事業部商品の対米向け商品の為替差損問題を解消するため、海外生産対策を検討していたところ、丁度、台湾に作られた合弁工場で仕事が無いというので、その前年、先ず台湾に生産の一部を移転し、計画通り、このプロジェクトを成功させていた。

 つまり一通りの海外経営術をマスターしていた。それ故、ヘヤードライヤー等の世界市場進出拠点として、また高まる円高回避対策として、次は東南アジア

に独資で工場を作ろうと考えていたのである。

1987年といえば国内もバブル経済真っ盛り、

海外への工場進出もピークに達していた。どの

企業も我先に有利な工場立地を求め、東南アジ

ア各国はすさまじい日系企業進出競争のさなか

にあった。

 当時、事業部の商品部長は後にタイ松下電工

の社長になるTY君で彼自身も海外調達による

一物一価の実現が経営上どうしても避けられな

いと考えていた。私は彼と相談し、進出すると

すればどの国が良いか調べて来てくれと指示し

た。彼は国内で調査を行ったあと、タイ、マレ

ーシア、インドネシアの3国をつぶさに歩き、

その事情を詳しく調べた。彼はもともと商品設計技術者であり、工場計画の専門家というわけではなかった。しかし私の指示の中に、もし現地企業(工場)が誕生したら、そこの社長として赴任してもらうとの意図があることを彼自身も感じていた。だからその課題を自分のこととして、取り組み、最終的にタイを選ぶという最適解を得たのである。彼の調査の結論に対して、私は直ちに同意した。私は経営陣から、何ぜタイか?と聞かれたときに挙げるべき答えだけをチェックすれば良かった。

 このようにして、タイへの進出を決めたが、彼はタイに数箇所の候補地がある、どれにするか、と私に聞いた。私はそれもあなたに任す、あなたが良いと思うところを調べて決めなさい、と一切を任した。

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