Bell-hs-Lab
●研究所、新製品「ホットカーラー」を売り出す。
初期の目的であるお出かけ前にセットできる器具を作る方法つまり技術開発の成功を受け、商品としてのデザインや設計も進み、やがて金型準備をする段階になったとき、ある日K部長が「金型をつくり、開発品を200台作って試験的に発売してみよう」と言われた。もとよりこれはわれわれにとって念願がかなうことであり、大変嬉しかったが、その結果には確信が持てず、半信半疑で正直自信は無かった。
半信半疑だったのはわれわれ開発チームのメンバーだけではなかった。この商品の担当事業を行っていた事業部も研究所製の商品なんか売れるはずがない、と高見の見物を決め込んでいたのである。
だから、量産設備を持たない研究所では200台くらいしか作れず、それをテストマーケットにかけて市場性を確かめた上で事業部にこれを引き継いでもらいおうという作戦だったわけだ。ただ市場に実際に販売するとなると研究所だから、事業部の協力なしには何もできない。そこで事業部の営業企画課が発売企画を手伝ってくれ、説明書やチラシ、ポスターなどを作成してくれた。何しろそれまでに無かった製品だから参考にする資料も何もなく、唯一その原理や使い方、効果など開発段階から溜め込んだ知識をもとに発売準備を進めた。
発売準備も全て順調だったわけではない。最も大きな問題は営業部門に、こんな美容器具は電器屋で売れる筈が無いと発売を拒否されてしまったことである。そこでホットカーラーは最初、化粧品雑貨ルートで発売することになった。そしてテスト販売地域にはすべての好条件が揃っていた四国は高松、新居浜がその地に選ばれた。
私は消費者の生の声を確かめるため、そしてその成否を見届けるため、自ら望んでテスト販売プロジェクトに参加し、現地営業社員と一緒に約2ヶ月、行動をともにすることになった。 この経験がその後の新商品の市場性を自ら判断し、販売段階で致命的なネックを回避する、所謂R&Dのみならず、マーケティング段階までどうすれば一貫して市場創造を成功させることができるのか。そのノウハウを会得することになるのだから、不思議だ。
それも研究所が何もそこまでやらなくても、という周囲の圧力や上司に止められても研究所を放り出されてもかまわない、自分はこのカーラーの開発と市場づくりを最後までやりとげるんだ、この一途な思いとそれを許してくれた上司、今思えばこれが全ての原点であった。
●高松、新居浜でテストマーケット
昭和40年1月18日高松で薬粧代理店
H商会様や営業所員への商品説明会が初めて
開かれ、細かいテストマーケットの計画が
決まった。そして世界初の電器製品を初めて
売り出す化粧品店約30軒が「チャームストア」
の名のもとに集められ2月8日の商品説明会で
は臨時採用された山根美容師の手によりモデルの営業所女子社員の髪が見事にセットされ、並み居る女性店主も見事な出来映えにただうっとり。即全店の巡回実演販売キャンペーンが決定した。
2月11日第1日ミカサヤ化粧品店での成果は当日5台、後日のフォローで21台の販売だった。翌12日からは新居浜市でも巡回開始。テスト販売は3月中旬まで連日各地の化粧品店を2チームが巡回して行い、通算、予約1500台の販売成果を上げた。現地での成功は刻々本社に伝えられ、量産体制が事業部の手によって進められた。このテストマーケットの成功は商品力にもよるが最大の理由は地元営業第一線で活躍していた牧課長(故人)、*広瀬多加代、川東、和田三人の女性社員と山根美容師の働きによるものだった。今を去る36年前、その日の成果を語り合った居酒屋”一直”が懐かしい。
注*広瀬多加代氏は後年松下電工を退社後、舞台女優の道を進まれ、劇団R&Cに所属し、
私のヒロシマシリーズなどの舞台に、朗読に、恵まれた才能を活かし大活躍されています。
